無題

先日 新聞に哲学者の梅原猛さんが亡くなられたとの記事が載りました。ある方が持っておられた昭和の終わりごろの日本経済新聞のコラムに梅原氏が寄稿しておられたので・・・その一部はこんな内容でした,

(はじめのほうで孔子 釈迦 イエスなどの諸聖人にふれ後半で)私は,永年,いろいろな人間と会ってきたが確かに日本人は,善においても悪においても,知においても,エネルギーにおいてもどこかつつましいところがあったと思う。つまり日本人にはそう賢い人間も,そう愚かな人間もなく,そう良い人間も,そう悪い人間もない,政治家も,実業家も,学者も,適当に賢いが,傑出した輩がいない,と思っていたが,最近は少し考え方を変えた。というのは善において,知においてそうえらい人間はないが,痴において愚においてかなりすごい人間が出始めたのではないかと私は思う。 よくこんな悪い奴がと思う人間があり,そういう人間が結構のさばる社会に日本もやっとなったのではないかと思うことがある。人間がますます悪くなり,途方もないような悪人が日本の社会のいろいろな分野に活躍するようになった時,やっと聖人は出現するにちがいないと思われるが,その時期は案外早いのではないかと私は思う。(哲学者)・・・と。

高校生時代の‘倫理社会’の授業で先生が 「図書室から借りてきました。」と言ってデカルトの『方法序説』をかわるがわる読まされた時には生徒全員チンプンカンプンで (哲学者というものはその天才的な頭で言葉を駆使して論理の冒険のようなことをする人種だな)などと若い時分には思っていましたが こういう冷静な頭脳と温かい心を共に持ち合わせている人もおられるのかなと思うときがあります。

 

そうですねえ でもそういう方が世の中にあらわれても どこから見ても普通のおっちゃんにしか見えないでしょうね,見かけは市井のただの人,子供たちがワーッと喜ぶアニメや映画のスーパーヒーローじゃないのですから。私が小6の時のクリスマス間近の社会の時間に担任の先生から「イエスという人が自分たちの生活の苦しいのを助けてくれるんだ,とみんなは思っちゃったみたいだね。」と聞いたことがあります。我々大衆に受ける話をするために出現されるわけではないし 出会えても見極めることができればいいのですけど やはり“縁” ということになるのでしょうか。私には深くて難しい問題です。

2019.01.⒛

受験生の皆さん

受験生の皆さん 年末正月関係なしに受験のことが気になってどうしようもなかったことと思います。そうでもなかったですか?試験が近づくといろんなことがしたくなりますね,ふだん見向きもしなかった小説を読んだりいろいろ片づけをしたり 手紙を書いたり 思索にふけったり それで心の安定を図るのですからそればっかりにならなければよいと思います。入試から目を離せなくなる時期は今まで心に押し込めてきたものが顔を出す時期でもあります。気持ちの整理がついてからではなくすぐにでも“自然体”になりましょう。(ゆったりしたり やりたくないものはやらなくてもいい 気が向いた時にやればよい)とほとんどの方がそういうふうに考えるでしょうけれど 目標をもっているときの“自然体”とはそうではなく【前進しかできない】ことを言います。ときどき塾の生徒さん方にはそのように言うことはあります。以前書いた「姿勢」につながると思います。先の方につらいことがあってもそうしてみた方が楽だから。【やる気が起こる前に動け。】 です。

去年の今頃 中三生に,「Don’t  sigh.」とボードに書いて「発音してみて。」「ドウント サイ」 「もっと速く。」「ドントサイ!」 「どうですか皆さんわかったでしょう。 これがどんと祭のコンセプトなんですねー。」「・・・。」 みんな (またオヤジギャグかよ 百万分の一秒でも感心して損した) とばかり(はあーッ)と‘ため息’をついていました。

2019.1.10.